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【日本橋蛎殻町 すぎた】老舗の鮨屋から学んだ “在り方” を継承し、極上の おもてなし を追究する鮨職人

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「日本の食文化を世界に発信していく」。そんなポケットコンシェルジュのビジョンから始まったインタビュー特集です。日本で活躍する一流レストランのシェフを取材し、レストランに対する思いや、料理人としての考え方などを紹介していきます。

第三回

『日本橋蛎殻町 すぎた』
杉田孝明

連日予約が取れない鮨屋として知られている『日本橋蛎殻町 すぎた』。つまみや鮨の秀逸さだけでなく、店主・杉田孝明 氏の人柄や気遣いのある接客も多くのゲストを魅了し続けている。2017年版のミシュランでは、初の一つ星を獲得し、より一層の注目が集まっている。今回は、杉田氏の修業時代のエピソードから予約困難店となった現在までの歴史や店づくりについて語っていただいた。

Pick up topics
1. 鮨屋に憧れを抱いていた中高生時代。高校卒業後に出会った親方の魅力
2. 初めての修業先から12年。さまざまな努力を積み重ねて開いた自身の店
3. ほどんどお客が来ない3年間を過ごしたあとに訪れた、予約困難店への転機

鮨屋に憧れを抱いていた中高生時代。高校卒業後に出会った親方の魅力

―――いつ頃から鮨職人になろうと思われたんですか?

中学生の時に、ミーハーなんですけども「イキのいい奴」というNHKのテレビドラマがあったんですね。これは、鮨屋に弟子入りした男が一人前の鮨職人になっていく話なんですけど、このドラマを見て、鮨職人ってかっこいいなと思うようになったんです。鮨職人の曲がった事が大嫌いな生き方や、鮨を握る所作がすごくキレイで、憧れましたね。そして、高校生になった時に、地元の千葉の鮨屋で友達がアルバイトをしていたんですが、その友達が働いていた鮨屋を辞めるとなった時に、「辞めるなら代わりの人連れてきて」とお店の方に言われたらしく、そこで代わりに入ったのが私なんです。お鮨屋さんは中学生の頃からの憧れだったので、楽しいアルバイト生活でした。そこから、今後、仕事としてやっていく上で鮨屋を生涯続けていこうと思ったのが高校生の頃ですね。

―――高校を卒業後に、すぐ鮨屋に就職されたんですか?

そうですね。鮨屋で修業するなら、千葉ではなく東京だろうと思いまして、たまたま高校の求人で東京のお鮨屋さんがいくつか募集していたので、何件かピックアップして東京に出てきました。募集の中には『久兵衛』さんなど有名なお店も入っていましたが、一番初めに面接した『都寿司』で修業することに決めたんです。

―――いろいろ候補があるなかで、なぜ『都寿司』を選ばれたんですか?

面接の時に、親方とお会いして、お鮨をご馳走になり、千葉の田舎のお鮨とはやはり違うわけですよ。美味しいですし。それで、親方がすごく人柄の良い方で、魅力的だったからですね。なので、他の面接はもういいやと思いその場で即決して、その日から独立まで12年間修業させていただきました。

―――親方はどういったところが魅力的だったのですか?

人間性といいますか、真面目で実直で、私たち弟子に対しての面倒見がすごくいい方なんですね。あとは、この日本橋蠣殻町という街に対してもそうですし、鮨業界の未来に関してもすごく考えてる方で、いまは「全国すし商生活衛生同業組合連合会」(国内最大規模の職人組合)の会長なんですよ。そういった在り方の部分がすごく魅力的ですね。

すぎた様カウンターにて集合写真

真面目で実直で、私たち弟子や鮨業界の未来も すごく考えている。そんな親方に魅力を感じています

初めての修業先から12年。さまざまな努力を積み重ねて開いた自身の店

―――12年間働かれた中で、初めはどのような修業時代を過ごされたのですか?

『都寿司』は、いわゆる街のお鮨屋さんで、出前もやりますし、コース料理もやります。客席はカウンター8席、テーブルの方が圧倒的に多くて、2階には宴会ができる座敷がある店なんですね。そういう店でしたので、最初は調理場には立てず、ひたすら出前に行ってました。1年間ペティーナイフすら握っていなかったですね。悔しかったですが、ただ当時は「出前で一等賞になりたい」と思っていました。この街のことは全部俺が知ってるぞ、地図なんか見なくてもどこの家に何を持って行ったらいいか分かるという風になろうと思ったのが1年目ですね。

―――本格的に仕込みを担当されたのはいつ頃からですか?

だいたい2年目から少しずつ仕込みの手伝いができるようになりました。コハダの頭を落としたりとか、鱗を引いたりとかですね。3年目のときに白身魚を卸したりとか、ちょっと大きな魚をやらせてもらって、4年目で巻物とか、アナゴを仕込ませてもらって、5年目で仕込みは一通りできるといった感じでしたね。その頃から握りも少しずつやらせていただけるようになりました。そこから、出前の鮨や宴会のコース料理などを担当させていただくようになり、自分のスキルを磨くことができたので、そういった機会を与えていただいたのはすごく感謝しています。そして、実際につけ場を任されるようになったのは8年目からです。

―――『都寿司』の暖簾分けとして独立されたかと思いますが、どういったきっかけがあったのですか?

28歳のときに、このままでいいのかな、もっと上の世界があるんじゃないかなと思うことが多くなったんです。それで、当時は親方が「すし組合」の会合に参加する時にカバン持ちもやってましたので、その時に他の鮨屋の方々と触れ合う機会が少しあったんですね。そこで、いろいろな情報を得るなかで、自分の修業先をもっと上げようということも考えていました。そんなモヤモヤとしていた状態で月日が流れ、ちょうど30歳を迎えるころに、親方から独立のお声がかかったんです。

―――それが、『日本橋橘町 都寿司』ですか?

正確にいうと、場所は同じなんですが『東日本橋 都寿司』という店でした。この店は、私が『都寿司』で修業を始めた2年目ぐらいに、先輩が独立して出した店です。しかし、7年で廃業になってしまうんですね。そこで、その先輩と私の間にいた先輩が引き継いだのですが、これも3年半ぐらいでダメになってしまったんです。ここで、誰かに店を出売ろうとしたのですが、2回廃業になっている店を誰も買ってはくれませんよね。
その時、私は30歳で、修業先を変えようかどうしようか迷っていた年の年末、12月31日に親方に呼ばれて「これ以上出店のお金は出せない。それでもいいなら自分でやりなさい。その代わり安く売ってあげるよ。もしやるなら正月の2日までに決めなさい。猶予は3日だよ」と言われたんです。いろいろと迷いましたが、正月実家に帰って相談して、店を始めることを決意しました。

―――そこで店名を変えて始められたんですね。

そうですね。初めは「都寿司という店名はやめた方がいい」と周りに言われていましたし、私もそう思っていました。ただ、親方が何かしてる時にボソッと「都寿司じゃなくなったら寂しいな」と言っているのを聞いたんですね。親方は12年間本当にお世話になって、この方を追いかけて来て、親方が悲しむのはやだなと。それならこれも運命だと思い、「東日本橋」から昔の町名の「日本橋橘町」を屋号にしてオープンしたんです。

写真 都寿司の店頭、大将と奥様

「出前で一等賞になりたい」。この街のことは全部知ってるぞ!と思っていたのが修業1年目ですね

ほどんどお客が来ない3年間を過ごした後に訪れた、予約困難店への転機

―――当時のお客さんの入りはどうでしたか?

2004年のオープンから初めの3年ぐらいは、ほとんどお客さんが来なかったですね。ただ、エリア的に繊維問屋さんの問屋街なので、昼の人口は多いんです。なので、ランチはそれなりに入ってました。値段も安く900円ぐらいのちらし鮨をやっていたので。それに対して夜は人口が減って閑散としていて、まったくお客さんが来ないんですよ。

―――今のお店の盛況ぶりからは想像できないですが、いつごろから軌道に乗り始めたのですか?

2007年ぐらいに、当時の30〜34歳ぐらいの若手の鮨職人が増えた時期で、ちょっとした鮨ブームが起こったんですね。そこで、とある雑誌の企画で、当時の注目されていた若手の鮨職人の特集があって、そこに運良く私も入ることができたんです。そこから、うまい具合にその他の取材も入るようになり、1年間で25件の取材を受けたんですね。そのあたりから徐々に軌道に乗り始めました。それでもまだ、予約でいっぱいというわけではないですが。

―――そこから、2015年に移転して『日本橋蛎殻町 すぎた』をオープンされたかと思いますが、これはどういったきっかけがあったのですか?

店の造りが少し古かったので、いつか改築か移転をしようかなと思っていました。『日本橋蛎殻町 すぎた』の物件は、妻の両親が、以前経営していたレストランで、妻もそこで働いていたんですね。ここは、私が『都寿司』で修業を始めて、一番最初に親方に連れてきていただいたレストランで、そのあともよく通っていたんです。そして2015年に、とあるきっかけでレストランが閉まることになり、物件が空いたんですね。この物件は、私の妻の歴史でもあり、私自身もすごく思い入れがある場所だったので、鮨屋向きの物件ではなかったのですが、思い切って改築してオープンしたのです。

―――鮨の提供スタイルは、修業先の『都寿司』のころから変えられましたか?

そうですね。かんぴょうの味付けは、『都寿司』の味をそのまま引き継いでいますが、その他は全て変えています。自分はこうやりたいというイメージはあったので、オープンから1~2年ぐらいはいろいろと試行錯誤しましたね。ただ、シャリを硬く炊いてみたり、思いっきりすっぱくしてみたりしてお客さんに出したら「大将さすがにこれは食べられないよ」と言われていました。いま思うと笑っちゃうようなことばかりでしたね。いまの鮨の味づくりは、酢飯は米と酒粕からできた琥珀色の酢と酒粕からできた赤酢をブレンドして作っています。このスタイルになったのが2010年か2011年ぐらいですね。いわゆる「予約が取りにくい店」と言われるようになったのもそのころからです。

―――店では「おまかせ」がメインかと思いますが、その中で定番のメニューなどはありますか?

つまみで定番となっているのが、サバやイワシなどの光り物を海苔で巻いたもの、甘く炊いたあん肝、あとは通年で何かしらの食材を味噌漬けにしたものです。鮨に関しては、コハダです。いつも握りの一番初めにお出ししておりまして、お客様には「『日本橋蛎殻町 すぎた』といえばコハダ」という印象がついているのではないでしょうか。

〆鯖の海苔巻き「〆鯖の海苔巻き」|出典:ポケットコンシェルジュ

小鰭「小鰭(こはだ)」|出典:ポケットコンシェルジュ

―――『日本橋蛎殻町 すぎた』が人気の理由の一つとして、大将やお店のスタッフの方がつまみや鮨を提供する際の目配り気配りが素晴らしいという声を良く耳にするのですが、そういった部分は常に意識されていますか?

私は子どものころから、人が笑うこととか、人を楽しませるのが好きだったんですね。なので昔からサービス業はやりたいと思っていました。そういった職業がなんとなく向いているんだろうなと。なので人を喜ばせるという感覚が根底にあるんですね。ただ、私自身は仕事でやっているという感覚がまったくないんです。おそらく、そういった無意識にやっていることがお客さんにはいいサービスだと好評をいただいているのではないでしょうか。うちの若い子には、私が思っているサービスというものを嚙み砕いて教えたりはしています。

―――大将の人柄の良さも、店の雰囲気づくりに繋がっていると思いますが、それは親方の影響があるのでしょうか?

私は自分で言うのもなんですが、『都寿司』で修業するまで、ちゃらんぽらんで適当な人間だったんですね。それを、「人は誠実であるべきだ、社会人とはこういうものだ」と教えていただき、私の人柄そのものをつくっていただいたのは親方でした。いまはお客様から言葉遣いが丁寧だなどと言っていただけますが、それもすべて親方のおかげですね。鮨屋というものは鮨の技術だけでなく、職人としての在り方の部分が非常に重要だと思っていて、そういった一生物になりえる人柄をつくっていただいたことにすごく感謝しています。

―――なかなか予約が取れない店という印象がありますが、どのようなサイクルで予約を受けてらっしゃいますか?

カウンター席に関しては、基本的には毎月月初に翌月分を受け付けています。ただ、一度ご来店いただいたお客様が来店時に次の予約を取っていかれるため、この段階である程度の席が埋まっております。月初の電話予約は9時~15時で対応しておりますが、開始1時間程度で全て席が埋まってしまう状況です。あとは、4名掛けの個室が一つありまして、こちらは1週間前から予約を受けています。個室はカウンターのようなライブ感はありませんが、3~4名様でお話しをされながら楽しみたいというお客様に好評をいただいております。メニューは、お通し、つまみ7品程度、握りが11貫程度の「おまかせ」がメインで、火曜~土曜が夜2回転、日曜が昼2回転、夜1回転で営業しております。

―――最後に、今後の展望をお聞かせください

現状では、多店舗展開などは特に考えていません。ただ、『日本橋蛎殻町 すぎた』で働いた弟子が独立し、さらにその店の弟子たちまで独立できるように、繁栄していけたらいいなと思っています。そのためには、私の店は独立した弟子の店よりも上にいけるように、常に背中を見せ続けられる店づくりをしていきたいですね。

すぎた ロゴ
<大将からの一言>
『日本橋蛎殻町 すぎた』は、2015年10月27日にオープンして以来、多くのお客様に支えられて今まで営業してまいりました。最近では(2016年12月現在)、英語のできるスタッフが一人いるため海外のお客様も少しずつご来店いただいております。今後も、皆さまにご満足いただけるような店づくりを心掛け、よりいっそう精進してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

※『日本橋蛎殻町 すぎた』は予約困難店ですが、ポケットコンシェルジュに会員登録していただくと、様々なレストランの最新情報を受け取ることができるようになります。

【聞き手・文】白石直久
【写真提供(人物、店内)】『日本橋蛎殻町 すぎた』
【撮影(ロケーション)】ポケットコンシェルジュ編集部

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<『日本橋蛎殻町 すぎた』へのアクセス>

ロケーションの写真
夜になると閑静なエリアに。黒を基調とした店頭に温かみのある明かりが灯る。
カウンター席の写真
大将の握りの所作やおもてなしが目の前で堪能できる、9名掛けのカウンター席。
個室の写真
つけ場と繋がっている4名掛けの個室。大将が握った鮨は、一貫一貫お弟子さんが提供する。
Restaurant Data
店名: 『日本橋蛎殻町 すぎた』
住所: 東京都中央区日本橋蛎殻町1-33-6 ビューハイツ日本橋 B1F
営業時間: Lunch(日曜日) 11:00~、13:30~
Dinner (火~金曜日) 17:30~、20:30~
(土曜日)17:00~、20:00~(日曜日)18:00~
定休日: 月曜日